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FUJIPET

1957年7月 東京数寄屋橋ショッピングセンター2階に「富士フォトサロン」が開設され、その披露とあわせ、新製品 FUJIPET の発表が行われた。

また、富士フイルムは、丁度 民間放送局ができたこともあり、一般ユーザー向けの宣伝に力をいれはじめた。当時の富士フイルム宣伝課長へのインタビュー記事のなかに、FUJIPET に関連する記事があるので紹介する。

ラジオで じゃんじゃん宣伝をいれはじめたら、競争会社から、おまえのところは何をやっているんだといわれたものだ。その後、テレビ放送となり、FUJIPET をテレビ宣伝したら、直ぐに売れていった。テレビの広告をみたとか、新聞の広告をみて買ったとか、スタートから上々であった。

富士フイルムの社史「富士フイルムのあゆみ」に“写真入門機  フジペットシリーズの誕生”と題して、明記されているので、先ずは転載紹介する。

当社は、“フジカシックス”の商品化で、カメラ市場に参入したが、写真感光材料とカメラを生産する総合メーカーとして、カメラの開発上の最も大きな課題は、「写真需要の拡大」ということである。この目的にたって、当社は、これまでにカメラにふれたことのない人でも、手に入れたその時から気軽に写真撮影を楽しめるカメラの開発をした。設計は株式会社甲南カメラ研究所」に、デザインは東京芸術大学の田中芳郎氏に、それぞれの協力の依頼をした。そして、写真入門機といえる6㎝×6㎝判カメラ“フジペット”を開発し1957年9月に発売した。“フジペット”の標準小売価格は1950円とし、ボディの色は「黒」のほかに、赤、青、緑、グレーの各色を順次そろえ、6㎝×6㎝判かめらでありながら、スタイルは当時流行の兆しをみせはじめた35㎜判カメラ風のプラスチック製で、左右のレバーを 1、2の順番に押すだけで手軽の撮影できた。この“フジペット”は、写真の入門機として、期待通り、小学校高学年を中心とする年少者層、さらに初めてカメラを手にした女性と、幅広い各層に使用され、爆発的な人気を呼んだ。

過去のことを纏めていく上で、いろいろな思いこみ、記憶違いなどなどあるものだし、各メーカーも自社が最初と発表することもあり、注意はしているものの、よく勘違いをしてしまうことがある。

この「芽生えカメラ」の開発にあたって、ある書物には、1955年あたりからのカメラ需要の落ち込みを心配して、全連(全日本写真材料商組合連合会)が音頭をとって、「芽生えカメラ」の提唱をし、これに応えて「フジペット」ができあがったという記事を目にしたことがあるが、富士フイルム社内では、すでにその前、1954年あたりから社内で検討されていた。

また、「芽生えカメラ」という観点からすると、1953年には、小西六写真工業がKONILETTEを、マミヤ光機がMAMIYA MAMY をすでに発売していたが、FUJIPET の大反響に打ち消されてしまったのであろう。