[7] FUJICAFLEX AUTOMAT(2)

FUJICAFLEX AUTOMAT 製品化まで

1950年はじめに発売された RICOH FLEXⅢ は本体価格5800円、ケース1500円、合計7300円という安い価格、当時の国産二眼レフが20000円前後の時代だったから、爆発的な売れ行きとなった。

その影響もうけて、終戦後の経済復興の波にのりながら、二眼レフカメラの工場が林立していった。それこそ、旭工学、キヤノン、ニコンを除く各カメラメーカーは二眼レフカメラの開発生産にはしった。その上に、二眼レフカメラ生産の町工場までできあがり、何と「J」「U」「X」を除いたアルファベットを頭文字に表記したブランドの二眼レフが生産された。

これらのカメラは、国内出荷台数40万台まであと一歩というところまでの記録を残した1957年を頂点に、35㎜一眼レフカメラの台頭も重なり、勢いが鎮静化した。

しかし、これだけの工場ができ、新しい機能を付加したり、コストを何処まで切り詰められるかにチャレンジしたり、それぞれの会社が切磋琢磨したことは、日本のカメラ工業発展に大いに尽くしたと考える。

そのような環境の中で、富士フイルムも FUJICASIXⅠ型を発売した1948年、すでに二眼レフカメラの開発研究を開始しており、1949年には、試作一号機のFUJIFLEXをつくりあげた。試作機を開発したものの、このような普及型にするのが良いのか、オートマットクラスの高級機型にするのが良いのか迷ったようだ。

最初から高級機を出すのは危険との考え方もあったようだが、高級機型も試作していこうと結論付け、試作2号機・3号機の REFLEXFUJICA を1950年には完成させた。試作2号機と3号機との違いは、ピントフードに「オプチカル透視ファインダー」がついているか、「アルバタ式ファインダー」がついているかの違いだけである。

シャッターカバーハ他社にない独特のストリームデザインにしたり、レンズはテッサータイプの4枚構成のf2.8のしたり、フイルムの巻上げと焦点調節は同じノブにしたり、焦点調節は直進繰り出しと近接撮影時の前玉回転併用に氏足りたのは、FUJICAFLEX AUTOMATの基本ベースがここで出来上がったと言うことになる。なお、シャッターは、ドイツから輸入したCOMPUR-RAPID を装着した。

当時の町工場で生産されている二眼レフカメラのほとんどが、普及型でもあり、富士フイルムがオートマット形式の二眼レフカメラを模索しているとカメラメーカー他社が察知したこともあり、富士フイルムとしては、試作2号機3号機をベースに、高級機型二眼レフカメラの開発方針を決定した。

1951年には、試作4号機のFUJICAFLEXを完成させ、カメラメーカー他社との競争上の事も考慮し、試作機の全貌を公表した。デザインは、細部にわたっての手直しをし、ピントフードは単純に折りたたみ式に変更した。レンズは、PENTRECTAR f2.8 83㎜ 3群5枚構成とし、シャッターは、そのままCOMPUR-RAPIDを採用した。

1953年には、ファインダー部を全面改良し、試作5号機のFUJICAFLEXをつくりあげ、これが、FUJICAFLEX AUTOMAT のほぼ原形といえる。